哲学犬「れいちゃん」と聴導犬の世界:                    日本聴導犬協会応援団 山根一眞団長

ノンフィクション作家 獨協大学 経済学部 特任教授

聴導犬候補犬の新・家族(里親)に


タイトルなし
(※日本聴導犬協会ではキャリアチェンジ犬の里親を「新・家族」として募集しています)

 2000年の秋、犬を飼っている親友一家を訪ねた時に、「いいな、うちも犬を飼いたいねと話しているんだけど……」と、口にしたところ、思いがけない助言がありました。

「耳が不自由な方を支える聴導犬って知っていますか?」

 恥ずかしながら、私は知らなかった。

「聴導犬は欧米と比べて日本はとても少ないが、無償で貸与している組織があってね。保護され殺される運命の犬を引き取り訓練しているが、最後の試験に合格できず聴導犬になれなかった犬たちがいて、里親として出す制度があるんです」

 わかったことは、こういうことだった。

 聴導犬の訓練には少なくとも1年半はかかる。一頭あたり約200万円のコストがかかるが、聴導犬は寄付などによって無償で貸与している。日本聴導犬協会は聴導犬の歴史が深いイギリスのノウハウが基本で、最後の試験基準が厳しく不合格となる犬が少なくない。その犬たちを引き取ってくれる新・家族(里親)が多くあれば、聴導犬としての可能性のある多くの犬の訓練に取り組むことができる。里親は聴導犬の普及に欠かせない存在なのだ、と。

 1週間後、協会と数組の里親志願者による里親募集犬とのお見合いがあり、当時高校生だった息子が参加。黒柴と洋犬のミックス「れいちゃん」を希望しました。

 そして忘れもしない2000年11月27日、日本聴導犬協会代表の「有馬もと」さんらが拙宅に来訪、「れい」を預かりました。当日の「れいちゃん」の写真を見ると、表情がかたく緊張ぎみだったことがわかりますが、家族4人、「れいちゃん」がすっかり気に入り幸せな日々が始まりました。

 有馬さんからは、1ヶ月後に再訪し、我が家に「れいちゃん」を飼う資格があるかをチェックし、NGとなった場合は「連れ帰ります」と言われていました。しかし、「れいちゃん」をもはや手放すことはできないので、有馬さんが来る前に「れいちゃん」を連れて「一家で夜逃げするしかないかも」とまで話していたほどでした。

 幸いわが家族は、「不合格」の犬を飼う資格に「合格」。歓喜しました。

 もっとも「れいちゃん」が家族の一員としてすっかり馴染んでくれるようになったのは半年後。表情が変わるものですね。「れいちゃん」の聴導犬としての成績評価図を見ると音などに「臆病」だったことがわかります。馴れるまで時間がかったのは、その「臆病」さが原因だったようです。

殺処分されている犬たち


日本聴導犬・介助犬訓練士学院にて特別講義
日本聴導犬・介助犬訓練士学院にて特別講義
 「れいちゃん」は、生後数ヶ月の子犬時代の1998年5月1日、岐阜市の保健所に保護された犬です。有馬さんらはその保健所を訪ね、聴導犬候補犬として引き取り、およそ2年半をかけて訓練を続けてきたのです。有馬さんによれば、こういう殺処分される運命の犬の命を救い、聴覚にハンディのある方のかけがえのないパートナーとなるよう育てることが日本聴導犬協会の目標なのです。

 捨てられて保護、捕獲された犬の行く末ですが、東京都では一定期間飼い主が名乗りをあげない場合には、殺処分をしています。東京湾岸にあるその建物では、処分日を迎えた何十頭もの犬があるコーナーに連れて来られます。やがて3方の仕切り板が電動仕掛けで迫り、犬たちはごく小さな空間へと押しやられます。すべての犬がそこに入ると扉が閉まり内部は二酸化炭素で満たされ絶命します。次に床が開き下に落とされた犬たちは、そこで焼却され白骨になります。私がこの問題を取材し、殺処分の現場も見て本に書いたのは1986年のことです(『ドキュメント日本のそうじ』収載「犬猫のそうじ」山根一眞著、講談社文庫)。

愛犬れい君、くろちゃんと(旧協会にて)
愛犬れい君、くろちゃんと(旧協会にて)
 「れいちゃん」はわが家族のみならず、自宅から近い山根事務所のスタッフたちにとっても大きな心の支えとなりました。私は有馬さんらが保健所から殺処分寸前に「れいちゃん」を救ってくれたと聞き、まず「あの現場」を思い出していました。殺されるはずだった「れいちゃん」なのに、これほど私たちの心の支えとなってくれたことを感謝するとともに、犬とはいえその命の大切さ、人にとっての大きな価値をあらためて実感しました。

 ささやかでも日本聴導犬協会の活動を支え続けたいという思いを抱くようになったのは当然のことでした(ホントにたいしたことができずにすみません)。

「れいちゃん」は広報犬に


 私はメディアの仕事をしていますので、私にできることは聴導犬への理解を広めることだと考え、新聞やラジオ、テレビの番組などで聴導犬、日本聴導犬協会のことを書いたり話したりするようになったのですが、最も効果があったのは、「れいちゃん」が毎日、山根事務所に「出勤」するようになったからです。

 「れいちゃん」は、自宅近くの私の仕事場へ出勤するのが大好きになり、「シュッキン!」「ジムショ!」という言葉を聴くなり、飛び上がって喜ぶようになりました。

 毎日の出勤なので「社員証」を作ってやり首から下げていましたが、来訪者はこぞって、かわいい「れいちゃん」に関心を持ってくれました。来訪者の大半は出版や放送などジャーナリズムの関係者ですので、私は、必ずや聴導犬や日本聴導犬協会の活動について話すわけです。「れいちゃん」は聴導犬の落第生ではありましたが、聴導犬の広報犬として立派な役目を果たし続けてくれたのです。

 若い世代や地域社会にも聴導犬への理解を促したいと、私が教鞭をとる獨協大学のオープンキャンパスにデモ犬とともに日本聴導犬協会の皆さんに来ていただいたこともありました(それがきっかけで埼玉県に協会の活動の輪が生まれたそうです)。

 また、私が文化顧問をつとめる福井県でも、敦賀短期大学で日本聴導犬協会のデモ講演をお願いしたことがあります。敦賀短期大学は瀬戸内寂聴さんが学長を務めたこともありましたが、学生数の減少で存亡が危ういとして、私は再三、学長就任を依頼されていました。その蘇生策として、「日本初の総合的なペット学部」を設立してはどうかと提言。日本では子供の数よりもペットの犬、猫の数が上回る時代が到来しているため、人とペットとの望ましい関係を築くための専門家を育てることは社会の要請だと考えたからでした。もちろん、聴導犬、盲導犬、介助犬などの専門家を育てる日本最初の大学にしたいと考えていました。

 そのいわば実証として、日本聴導犬協会にデモ講演をお願いし実現。それはとても好評でしたが、私の思いは通じず、この大学は2012年に廃校となってしまったのはとても残念でした。

身体障害者補助犬法へのアクション


 聴導犬のみならず、盲導犬、介助犬への社会的な認知が大きくなったのは、2002年に「身体障害者補助犬法」が成立したことが大きいのです。この法律の中で育成団体の社会福祉法人化に向けて大きな貢献をしたのが、日本聴導犬協会代表の有馬さんです。その実現までには多くの課題や問題があり、有馬さんはたちはだかる壁に直面されていました。

「相談にのってほしい」と来訪された有馬さんらと夜遅くまで、この法律のよりよい実現のためにどのような活動を続けるべきかを話し合ったことが忘れられません。

 その後、有馬さんは聴導犬や他の補助犬のユーザーたちとも手を携えて信じがたい努力を続け、8万人以上の署名を集め、厚生労働省に手渡しし、法律の成立の日を迎えたことには敬服するばかりでした。あの日の夜、「育ての母」のやりとりを足もとで聴いていたのが「れいちゃん」でした。

新しい施設の建設へ


 「れいちゃん」が我が家に来てからも、時々、長野県宮田村の「れいちゃん」の「実家」である協会を訪ねていましたが、その訓練施設は借家である民家でした。スタッフの皆さんと訓練犬たちにとっても、狭く厳しい環境でした。「きちんとした施設がないとなぁ」と思っていましたが、新施設建設の準備を開始したという話を聞いたのは2007年だったと思います。

 その建設についても多々問題があり、有馬さんはだいぶ悩んでおられました。拙宅を来訪された有馬さんやスタッフの皆さんと、その問題についてもやはり夜遅くまで話し合いました。「れいちゃん」はまたも、足もとで「育ての母」のやりとりを聴いていたことになります。

 この日に得た結論は、それまでの建設計画を思いきって白紙にし、協会として理想的な施設を構築する計画を練り直すことでした。そこで私が紹介したのが、女性建築家の岡崎恭子さん(一級建築士)でした。岡崎さんは私の長年の友人で、1999年に拙宅(当時は珍しかったエコハウス)を作ってくれた建築家です。後日、その岡崎さんから、「協会の施設の設計、建築を担当することになりました」という知らせを受けました。

 「身体障害者補助犬法」の時も、私は単に「言い放し」だけでしたが、新しい施設についても同じく「言い放し」だけでしたが、2008年9月18日に協会が理想とする施設が竣工しました。

 東京から宮田村へはクルマで片道4、5時間はかかるので、東京の建築家が足繁く現場に通うのは大変です。しかも、社会貢献団体の仕事は「儲かる仕事」ではないため、岡崎さんには竣工まで影ながら「叱咤激励」を続けていました(岡崎さん、ぶちぶち言いながらも見事な施設を作ってくれて、ホントにありがとう!)。

 それにしても、日本聴導犬協会代表の有馬もとさんの、聴導犬普及に賭ける情熱は並大抵のものではありません。全国を飛び回っていてなかなかつかまらない活動の日々を過ごしているにもかかわらず、2009年には、

『日本における「身体障害者補助犬法」再編の方向性・聴導犬貸与事業からみる「当事者」主権のための環境セッティング』

 The Ladder for Re-Structuring of 'the Law of Assistance Dogs for Persons with Physical Disabilities' in Japan

 The Social Setting for Autonomy of Deaf From the Viewpoint of Hearing Dogs Measures

 という標題で博士号を取得したことにも驚くばかりでした。

宮田村から東日本大震災被災地へ


 協会の新施設が竣工して2年半後の2011年3月、日本は東日本大震災というとんでもない大災害に見舞われました。私はその現場取材で訪ね、親しくなった三陸海岸の津波で全滅した小さな漁村の支援活動を開始していました。津波被災から1ヶ月後、私はその漁村、石巻市北上町十三浜大指(おおざし)の何度目かの訪問時に、建築家の岡崎恭子さんを誘いました。ともに避難所に投宿し困窮した日々を送る大指の人たちの話を聞き、私たちにできることは何かを探りました。

 そこで出てきたのが、「津波で遊び場を失った子供たちのために、東京でさえ見たことがない"夢のおうち"を作ってあげたい」というプランでした。その建設実現には資金面や材料、人手の確保など困難、困難の連続でしたが、震災の年のクリスマスに竣工式を迎えることができました。奇跡的な実現でした。

 その竣工式には、支援をして下さった多くの方々が東京からも来て下さったのですが、大サプライズがありました。有馬さんを初めとする日本聴導犬協会の皆さんが、デモ犬数頭とともにお祝いに来てくれたのです。

 スタッフの皆さん、ワンちゃんたちともに「着ぐるみ」姿で登場し、子供たちを大いに喜ばせてくれました。長野県の宮田村から大指へは片道約700kmというとんでもない遠隔地です。途中、サービスエリアで仮眠をして来て下さったと聞き、頭が下がりました。

https://picasaweb.google.com/kazmmma/20111222WEB?authkey=Gv1sRgCPfsg6Dhot6kZw&feat=directlink

 この施設は「大指十三浜こどもハウス」と命名しましたが、宮田村の施設を設計・建設してくれた岡崎さんという建築家が架け橋となって、約700kmをつなぐ絆となったのです。

タイトルなし
 私は、東日本大震災の被災地ではいろいろな支援活動を続けてきましたが、そのひとつが福島市の地元資本のスーパーマーケット「いちい」です。震災で店舗が崩壊するなど大きな被害を受けたのですが、その復興として新しい店を作りたいという相談を受けて、これまた岡崎さんに相談したところ、彼女の提案が採用され、2012年のやはりクリスマスに「Four's Market」という店が竣工しました。ちょっと小さい、やはり東京でもないようなおしゃれなデザインの店です。

 私は建築屋ではないんですが、これで、拙宅エコハウス、日本聴導犬協会、大指十三浜こどもハウスに続き福島の新スーパーと、岡崎さんには4件もやっかいな仕事をお願いしたことになります。

この「いちい」は福島県に12の店舗を持っているのですが、日本聴導犬協会の活動に深く共感、店頭での日本聴導犬協会のデモが実現。さらに日本聴導犬協会への寄付金付きの飲料自動販売機を全店に設置してくれました。

10年目に旅立った「れいちゃん」


 こうして日本聴導犬協会との15年にわたるおつきあいをふり返ると、我が家に「れいちゃん」という聴導犬候補犬がやってきたことで、次々と大きな輪が生まれていったことは驚くばかりです。

 これを書いている明日(2015年3月27日)、宮田村の日本聴導犬協会の施設で、亡くなった聴導犬や候補犬たちの「供養メモリアル(墓地)」の竣工記念会が開催されます。これも岡崎恭子さんが手がけてくれたのです。この「供養メモリアル」は、私たちが待っていた施設でもあります。

 「れいちゃん」は、2011年1月15日に亡くなっていたからです(享年、推定12歳と8ヶ月)。そのお骨は今も拙宅のリビングルームの一隅にかつての「社員証」とともに安置していますが、機会があれば生まれ育った故郷で眠らせてあげたいと願っていたからです。その竣工記念会には、動かせない予定があり参加できないため無念の思いですが、あらためてお訪ねするつもりです。

 有馬さんに「れいちゃん」が亡くなったことを知らせたあと、こんなメールをいただいていました。

 「れいちゃん」は協会犬の中でも、とっても変わったワンちゃんでした。哲学的というか、なにか、達観しているような。これまでにも「哲学犬」と呼ばれた子が3頭おりますが、その中でも際立って、思考っぽい犬でした。私は、そういう子が好きですが、通常の愛犬家ですと、犬らしい、やんちゃな子が選ばれます。「れいちゃん」の新家族を見つけるのはとっても難しいのではないかと、考えていたほどです。

 山根家だったからこそ、これほど理解されて、愛していただけた幸せな一生だったと思います。 「れいちゃん」にとって、最高のご縁だったと思いますし、きっと山根様やご家族のみなさまに(一番は奥様にかもしれませんが)感謝していると思います。


人類の進化を支えた犬



 確かに「れいちゃん」が「哲学犬」であったからこそ、学ぶことが多かったのです。

 人類のルーツであるネアンデルタール人は滅びましたが、ホモサピエンスは今日の人類へと進化を続けてきました。それは、ホモサピエンスが犬を伴侶としたからだった、という学説があります。オオカミが家畜化したと言われている犬は、人を外敵から守り、また狩猟の手助けをしてくれたことで人類の進化を支えてきた、犬の存在なしには今日の人類文明はなかった、と。

 私は「れいちゃん」との10年を通じて、この学説は正しいと思うようになりました。

 雷が嫌いだった「れいちゃん」は、雷鳴が轟くなり人の膝の上にのぼり、しがみつくのです。山に連れて行った際には、リードなしで先行して歩きながら、私たちの姿が見えなくなる山道の曲がり角では必ず立ち止まってふり返って待っていました。「れいちゃん」はお留守番が嫌いで、外出時に「待っててね」と告げるなり、ガクッと首を垂れて2階の自分の寝床に行ってしまうのが常でした。夜はいつも、私の布団の中にもぐり込んで寝ていましたし。

 私は「れいちゃん」を通じて、これほど生物分類上かけ離れた人と犬という動物が、なぜ深い交流ができるのかが不思議でなりませんでした。それは単に、「犬を愛玩する人」と「人に従順であることでエサを確保できることを覚えた犬」という関係を超えています。

 犬は、愛する人と自分の関係をよく理解し行動する能力がある……。

 聴導犬を初めとする補助犬は、そういう人と犬がもち続けてきた関係を、厳しさと優しさをもって研ぎ澄ませていく訓練によって産み出されているのでしょう。日本聴導犬協会が取り組んできた仕事とは、人類と犬が数万年にわたりともに進化してきた相互関係を、さらに進化させている仕事なのだ、と思わずにいられないのです。

「れいちゃん」の弟分


 「れいちゃん」を失った直後に襲った東日本大震災。その取材と支援活動の日々が続いたあと、2人の子供たちはそれぞれ独立、我が家は私と家内だけになりました。2人だけになり、「れいちゃん」がいなくなった淋しさがつのりました。夫婦の会話もとぎれがちで……。

 そんな時、たまたま「れいちゃん」ととてもよく似た黒柴の幼犬と出会ってしまったため、つい飼い始めてしまいました。この黒柴の名前はタタラ製鉄に因んで「たたら」。厳しく鍛造することで強靱で柔軟な鋼となるようにと願っての命名です。

 今度は聴導犬でも候補犬でもないので、有馬さんや日本聴導犬協会には後めたい思いが続いています。しかし私たちは、「れいちゃん」を通じて学んだ多くのこと、躾や望ましい人と犬の関係を築くための努力を「たたら」にも続けています。「たたら」には、「お兄ちゃんはこうだったんだよ」と言いながら。

 とてもかわいい新家族ではありますが、うーん、「れいちゃん」のような「哲学犬」ではないんですがね。

 2014年の夏、私は突然、ひどい難聴に襲われました。突発性難聴でした。

 ヘッドフォンで聴く音楽はボリュームを上げても音がバリバリに割れて識別不能。テレビのニュースも字幕が頼り。目覚し時計の音では起床できず、携帯電話での通話もダメ。数ヶ月間、まともな仕事ができぬ日々が続きました。

 最近、だいぶ音が戻ってきていますが、一時は聴導犬に助けてもらうことになるかなと考えることもありました。

 数ヶ月わたり聴覚に障害のある皆さんの辛さ、生活の困難さを少しだけですが身をもって「体験」したことで、今後、可能なかぎり、いっそう日本聴導犬協会の応援を続けねばと、あらためて決意しています。(2015年3月26日記す)

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